勝手に解説シリーズ(11)「それは在る ある御方と探求者の対話」ヘルメス・J・シャンプ著
※勝手に解説シリーズでは、本を読んでみて、独自の解説をつけています。
こんにちは、しゅんすけです。
今回、気になった文章は
13ページ13行目にある
「私が悟れば -ここでは悟りという言葉を使うが- 全ての人が悟るのだ」
「その時、私は存在しないし、あなたもまた存在しないことが理解される」
「あなたがいなければ、私という必要性もないのだから」
「また、悟りさえ存在しないことも明確に理解される」
です。
ソレから分離してると思い込む私。
ソレは全てに満ちいます。
あらゆる、空間に、時間に。
今、呼吸している。
そこにも、ソレ、が満ちています。
本来はわかれていない。
全て繋がっている。
けれど、「私」が存在するとき、ソレとのつながりがなくなったと思っています。
「私の」お金、とか。
「私の」家族、とか。
「私の」人生、とか。
ソレから分離していると思い込む時だけ - 本当は分離してないのだけれど、思い込むことはできる -、「私」が存在します。
私が存在するから、私以外も存在している。
例えば。
「私のチョコレート」がある思ったとする。
この時「私」は存在しています。
きっと、誰かがほしいと言った時、好きなら「私のチョコレート」あげるよ、と言えます。
「私」がいるから、チョコレートをあげる「私以外」が存在します。
「あげる」も「もらう」も「私(と私以外)」が存在しているからできます。
「私」の存在がない時は、「あげる」も「もらう」もできない。
例えば、散歩してて、カフェのテーブルにチョコレートがあったとすれば、「私のチョコレート」という認識は生まれない。
この時「私」は存在していない。
ただ、チョコレートがあるだけだ。
「私」は時と場合によって、存在したり、存在しなかったりする。
ただ、それだけだ。
「私の」悟りなどない。悟る「私」はいない。
悟りは私がするもの、ではない。
「私がする」の思っている「私が」が、時と場合によって存在したり、存在しなかったりする幻だと知ることが悟りだからだ。
私が目指す悟り、ではない。
「私が目指す」と思っている「私が」が幻だからだ。
「私」が存在しない時「悟り」はない。
「私」と同様、「悟り」もまた幻なのだ。
「私」が存在しない時
悟る私もいない、悟っていない私もいない。
すべてが繋がっている。
すべてがソレそのもの。
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